激化するPOWERチェックBATTLE!!
1984年

これだっ!と思ったシャシー
ダイナモによるPOWER測定
すぐに全国規模の競争が始まった!!

『恐怖のパワーチェック』という企画は、
いつもながらのことではあるけれど、
ひょんなことから始まった。

たしか、新車雑誌のベストカーだったと思うが、
そこの小さな囲み記事(10cm×10cm)に、
「BOSCHのシャシーダイナモ計測器が日本に輸入開始!」
という記事だった。

「これだっ!」と思った。

それまで、チューニング雑誌を作っていながら、
その基準になるものが、なにひとつなかったからだ。

レーシングカー関連なら、エンジンテストベンチがあり、
そこで計測された数値が、一応の目安になる。

しかしながら、チューニング業界というところは、
言ったもん勝ちの口先番長状態。

「社長、このエンジン、どれくらい出てますかね〜?」
「そやな〜、感じから言うたら……350馬力くらいちゃうか」

どんな『感じ』なんだろう?と、いつもいつも思っていた。

で、シャシーダイナモの登場でありました。
そして、世を挙げてのターボ推進月間状態が、
加速度的に続く時代でもありました。

藤本の240ZとCARBOYのダサカロを、
HKS千葉に持ち込んで、パワーをチェックしたのが最初だが、
そこから、強烈な流行となってしまった。

誰しもが、「オレのエンジンって、何馬力出てるんだ?」と
ずっと、ずっと、ずっと知りたかったと思うのだ。

で、CARBOYが始めた『恐怖のパワーチェック』は、
驚異的な反響を呼ぶ企画となった。毎月行なう取材チェックに加えて、
全国規模で、自費でやったパワーチェックシートを送ってもらって、
全国的なランキングを作り始めたことも、勢いに輪をかけたと思う。

毎月、毎月、いろんなショップで行なったパワーチェックシートが、
CARBOY編集部に届く。そいつをチェック(係数が正しいか?)して、
OKとなったらランキングを作成していくわけだが、
最初は全部一緒にやっていたものが、たちまち足りなくなって、
エンジン別、チューン度別にクラス分けを行なうようになっていく。

●1984年8月までのランキング表



●1984年8月号

●1984年9月のランキング表

そんな様相が、一気に変わったのが、
チューニングショップの積極参加だった。

なかでも、とんでもない数値を引っさげて登場したのが、
東京のABRと和歌山の河西モータースだった。

18R-G改2.4Lターボと、L28改3.1Lという違いこそあれ、
それぞれが叩き出した数値は、421馬力と325馬力。
いまであっても、この数値は、賞賛に値する。

それまで、国産車の頂点に立っていたのが、
伊東セリカXXの5M-G改2.9L390馬力と、
四宮RX-7 13Bブリッジターボの319馬力。
どちらかというと、RE勢が優勢で、四宮RX-7に続いていたのは、
SAKOレーシング平本RX-7、藤田エンジニアリングRX-7、RE雨宮田原RX-7。
L型といえば、エスプリ鈴木Zの276馬力がトップというところに、
18R-Gでの421馬力、そしてL型メカの325馬力の登場である。

びっくらこいた。

藤本は、大阪の岸和田出身なので、和歌山の河西モータースの和田さんの
ことは、ある程度理解できるところがある。非常に変わった(?)存在ではあるが、
現在でも、カートやレーシングシュミレターの製作を行なっていて、
30年以上前と同じ……と言ってもいいと思う。

かたや、ABRの細木さんは、藤本の印象としては「東京のTUNER」なのだ。
以前も紹介させてもらったが、ABR製のS130Z用のボディキットなんか、
「いやあ、やっぱり東京のお人は、センスが、センスしてるわ〜」と、
正直そう思いました。そして、エンジン作りの方法や、アプローチなんかも、
藤本のなかでは、東京のチューナーというと……細木さんなのであります。

それほど親しくしていただいているわけではないし、取材に伺う回数も
それほど多くない。でも、気になるチューナー、なのであります。

河西モータースの和田さんとABRの細木さん、
この決定的に対象的な存在のTUNERが、それまでの
パワーチェック路線に、強烈な一石を投げ込んだ。

L型が300馬力を超え、4気筒ターボが400馬力を超える。

そんなCARBOYの記事を読んだ大阪のL型チューナーが、

「ちょっと待ったらんかいっ!」

と言ったかどうかは知らないが、
即座に次号で大阪パワーチェック戦争が勃発する。

 

●1984年11月号

 

●1984年11月のランキング表

そうです。

等比級数的に増大していくBOSCHのシャシーダイナモは、
大阪のSHOPにも、どんどんと増殖していった結果、
L型の本家本元と呼ばれていた大阪で、一気に
パワーチェックを開催する運びになったわけだが、
その場所というのが、柿本レーシングとSAKOレーシング、
そしてレーシングサービスFACTOR……。

L型に関しては、2ヶ月前に驚異的だと言った
河西モータースの325馬力を一挙に凌駕する356馬力をマーク。
これは、柿本レーシングのクボZ。このマシンは、
後になって、CARBOY0→400mのメカチューンクラスを
この状態のままで制覇することとなる……。

その他の柿本製L型も327馬力、314馬力と、
総合力で一気に河西モータースの記録を圧倒。

後年、河西モータースの和田さんと話したときに、
このときのことではないだろうが、ポツンと出た言葉がある。

「エンジンでは、絶対にヒトに負けへん……そう思うてたんやけど、
柿本には、勝てんわぁ。どう考えても、アカン(笑)」

そのふたりの住んでいる場所は、

和歌山と堺市。至近距離である。

めぐり合わせというのは、往々にして
皮肉なものであります。

 

●1984年11月のランキング表

そして、L型バトルとは異なったところで、
SAKOレーシングの左光さんの意地も爆発する。

自身のRX-7は381馬力、お客さんのマシンも、
平本RX-7が356馬力と、それまでの300馬力前半から、
一気に急上昇させる

そして、もうひとつの決戦場所である
レーシングサービスFACTORでの結果は……。

ターボをドッキングしたL型で、364馬力と、
これまた大阪L型の意地を見せる。
だが、L型メカでは、そのほとんどが300馬力に到達しない。

だが、パワーだけで話をするのは、片手落ちの部分があると思う。
昔、ファクターの松下さんと話していたときに、
こんなことを聞いた覚えがある。

「柿本に負ける……って、客が言うねん。300mくらいまでは、
一緒なんやけど、その先でちぎられるって」

「でもな、よう考えてみ〜って言うてやるんや。柿本でL型組んだら、
長いこと待って、100万以下では無理やけど、ウチやったら、50〜60万くらいで、
そんなに待たんと乗れるでって(笑)」

そのとき、非常に深いな〜と思った。
誰も彼もが、フルチューンの最高性能を求めて、手に入れられるものではない。
もちろん、どこかでは、そう考えているだろうし、欲しているとも思う。

だけど、現実は、一番は一人っきりしかいない。
久保Zに勝ちたいと思っても、なかなかそうは問屋がおろしてくれないのが、
現実と言うものであります(笑)

だが、松下さんは、口ではそんなことを言っていながら、
CARBOY0→1000mでも、後のCARBOY0→400mでも、
柿本POWERを、いつか、どうにかしてやろう……そう思い続けていたと思う。
エントリーの仕方、視線、スタートの表情、そして、後年になって、
フルパイプフレームを購入しての挑戦……どう考えても、そうとしか思えないのだ。

だけど、河西モータースの和田さんとは正反対に、口には出さない。
このふたりが、若い頃にカートで競り合っていた仲だとは、
古い話を知っているヒトしか知らないことだが、
こんなところで、柿本という人物を挟んで、
違うベクトルからの競り合いが行われるとは、

●1984年12月のランキング表

……しかしながら、大阪で行われていた
L型&REパワーバトルと同時進行の形で、
関東でもパワーチェックチャレンジが行われていた。

上のランキング表の、REの欄を見ていただきたい。

前月、SAKOレーシングが叩き出した、381馬力という記録を
一気に塗り替えるマシンが2台登場している。

そして、その2台のマシンは、RE雨宮の浜本RX-7&村松RX-7
……そうです、浜ちゃんと村松青年のRE雨宮組のマシンです。
パワー値は、それぞれ411馬力と389馬力。

表というのは、一見すると、無表情というか、
事務的というか、平坦というか、面白みにかけるというか、

ま、そういうものなんですが、表に記入されている数値や日時、
そして、その背景を想像していくと、とんでもなく面白いものに、
変貌するというのが、藤本の持論であります。

前月に行われた、大阪のパワーチェック戦争を、
どっかに吹っ飛ばすべく、東京の江東区発の、RE勝負宣言が、
この2台の記録から、うかがい知ることができないだろうか?

ま、そのあたりは、当時のアマさんから聞いたわけではないから、
確かなことは言えないけど、想像するのはこちらの勝手であります(笑)

 

 

 

………………………………………………
……………………………………………………
…………………………………………………………
………………………………………………………………というところで、

 

今回の本題に入ります。

 

1984年というのは、CARBOYが、谷田部の総合試験路を使って、
CARBOY0→1000mを行なっていた年であります。

連続的に4回のCARBOY0→1000mを行なって、
最終決戦を1984年度の年末に開催したわけです。

そして、1985年度からは、FISCOに場所を移して、
CARBOY0→400mを開催する……予定になっております。

その、1985年度のしょっぱなに、これまでのパワーチェックBATTLEを
一気に超越したような記録が誕生しました。

それが、以下に紹介する、オートセレクトが到達した、
『計測不能』ゾーンへの進入であります。

 


当時使用されていた、BOSCHのシャシーダイナモには、
測定限度値というものがあり、その数値が『450馬力』。
それ以上は計測できないというものでした。

よく考えてみると、この計器は、ストリートのクルマの
パワーを計測するものですが、ヨーロッパじゃ、
普通のクルマをいじったものが、450馬力以上出るわけがない。
そういう常識のもとに、機械が設計されておりました。

だけど、日本人というのは、とんでもないことをしでかすもんです。

そこいらを走っている市販車を改造したクルマが、
450馬力以上を叩き出してしまうんです。

ま、その後のことを知っている方は、ターボを使ったマシンが、
500馬力や600馬力といった領域を、簡単に踏み越えて、
800馬力から1000馬力、そして、それ以上にステップアップしていった
ことをご存知でしょうから、驚くには当たらないと思いますが、
そういう『日本の常識』は、『世界の非常識』であることも、
知っておいていただきたいと思います。

とまれ、オートセレクトという第二世代のチューナー
(第一世代を柿本さんや山本さん、雨宮さん、細木さんといった世代と
規定するなら……の話ですが)が、L型のショートストロークエンジンを
ベースにしたツインターボで、前人未到の450馬力超えを果たすというのは、
当時としては、本当に衝撃的でありましたねぇ。

そして、このツインターボが、この年から始まるCARBOY0→400mに
エントリーする予定だという……これが、今回の本題であります。

時代と世代が、混乱状態のまま、舞台を谷田部からFISCOに移して、
新しいバトルが開始される。その前夜祭ともいえるのが、
今回紹介したパワーチェックバトルであります。

コノ後の展開は、ぼちぼち、そのうちにご紹介させていただきます(笑)

って、なんだか、浪花節の「……ちょうど時間となりました、
この続きは、またの機会に……」というのと一緒やな〜。

 

 


おっと、ここからさきはオマケであります。

RRCのドラッグレースのことを、先日紹介しましたが、
そこで強烈な勝負強さと、果敢な挑戦の結果、
シリーズチャンピオンを獲得したビルドサニーの
パワーチェックも、CARBOYで取材していたので、
こちらも参考にしていただければ……と思います。

パワーはスゴイ。パワーがあれば速くなる。
……でも、それだけではないんだよな〜というのが、
ビルドサニーの『強さ』でもありました。

 

 



↑できるだけ、いろんな方に見ていただきたいので、
よろしかったら、お願いします。



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