初代ドリコンGPチャンピオンになった織戸選手

織戸 学(神奈川)

CARBOY1990年12月号に掲載された、
ドリコンGPグランドチャンピオン大会

1989年7月に開催されたドリコンGPというイベントは、
それまでにない種類のものだった。サーキットで
開催されるイベントの99%は、タイムを競うもの。

だけど、ドリコンGPというイベントは、まったく
異なった価値観で勝敗を決しようというもの。
その成り立ちに関しては、別項で詳しく書きたいと思うが、
それまで見たことも聞いたこともないイベントは、
CARBOY読者のみならず、全日本的に著名なイベントになった。

スポーツランド山梨、エビスサーキット、中山サーキットと、
様々なサーキットを舞台に、初年度の開催を終え、
1990年度は、本格的にドリコンGPが開始された年度だった。

各地の戦いを勝ち抜いたチャンピオンが集結して、
1990年度のグランドチャンピオンを決する戦い。
これが、今回紹介するイベントなのだが、ここで、
初代グランドチャンピオンとなったのが、
誰もが知っている織戸学選手。

そして、この織戸選手が、現在に至るまでドリフト
イベントにおいて果たした役割の大きさは、
誰もが知っていることだろうが、この年度末決算的な
イベントは、1990年度ドリコンGPの幕を閉じる
イベントであったものの、それ以降の新たなドリコンGPという
カテゴリーの幕開けでもあった。

ここで、まず、「織戸学」という新たなハードルが設置され、
その後のドリコンGPが展開していくことになるのだが、
「織戸学」という存在は、単なるドリフトドライバーにとどまらなかった。

もちろん、レーシングドライバーにステップアップしていった
ということも、大きな要因ではあるけれど、それ以上に、
クルマというものに対するメカニック的な、スタイリングに
関連するものを、「織戸学」は持っていたということではないかと思う。

「織戸学」という存在には、〈華〉がある。

陽気で、一生懸命で、繊細で、あるときには大胆で……。
「織戸学」を見ることによって、他のドライバーは、
ドリフトドライバーというものが、
どういうふうに振る舞えばいいのか?ということを学習できた
のではないかと思う。そういう意味では、「織戸学」というものが、
このグランドチャンピオン大会で萌芽したと言えなくもない。

もともと持っていた素養が、花開くチャンスを得た……
ま、あとから言うなら、なんとでも言えるわけだが、
そのあたりの気分は、当時書いた原稿の熱さや、
興奮度合い(ま、プロですから、ある程度演出はしますが(笑)から、
察していただけるとありがたいと思う。



ドリコンGPという、なんとも奇妙なイベントが、
その後全世界的に認知され、拡散していく……
その原点ともいうべきところに、織戸学が出現した!!















      





 

 



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