ドリコンからレースへ進み始めた織戸選手

織戸 学(神奈川)

CARBOY1991年1月号に掲載された、
CB of THE YEARドリフトスター部門で
トップになった織戸選手


坂東商会の坂東さんから話があって、
織戸くんに「レーシングドライバーに挑戦してみないか?」
という話をしたのは、こちらとしては、ある企みがあったからだ。

ドリコンGPというイベントを初めたきっかけは、
あまり知られていないのだが、バイクのレースである
GP500のフレディ・スペンサーを見たことだった。

ダートトラッカー出身のフレディ・スペンサーが、
ホンダのワークスライダーとして採用され、
鈴鹿サーキットにきたとき、その走りを見た。

凄かった。初めてのサーキットだというのに、
チョチョッと走って、それまで平忠彦が持っていた
コースレコードを、いとも簡単にラップしてしまった。

一般的に言って、日本のレース業界は「グリップ至高主義」である。
タイヤのグリップを最大限に活かして、タイムを稼ぎ出すと
いう体質である。しかしながら、フレディ・スペンサーは
違っていた。リヤだけではなく、フロントが滑ろうが
なにしようが、関係なしにアクセルを開けていく。
チェーンがしっかりと張られていて、視線がコーナー出口を
向いていればOK……いかにもダートトラッカー出身らしいアバウトさである。

しかしながら、これが『世界のトップ水準』なのだ。
日本出身のレーサーが、海外ではかばかしい成績を
残せない要因のひとつが、ここにあると思う。

自分としては、F1のファーストグリッドに、日本人の若い選手がいて、

「○○クン、凄いよね、予選のトップタイムだよ!」

とレポーターさんが言えば

「いやぁ、まぐれでしょ。他の人が三味線弾いてるんじゃないですか〜(笑)」

というような光景を実現したいと思っていた。
だけど、CARBOYという雑誌をやっていて、
レース現場とは違うしな〜……そう思っていたのだが、
このときフレディ・スペンサーを見てわかった。

グリップの限界を超えれば、そこはドリフトの世界なんだ。
そして、その領域で、世界のトップ連中は戦ってんだ。
だから、日本人がそこに行くには、最初からドリフトで、
そいつのスピード領域をガンガン上げていけばいいんだ。

サッカー王国のブラジルでは、サッカー選手を夢見る少年が、
数限りなくいて、その数え切れないほどのサッカー少年の
なかから、マラドーナやペレ(古いな〜)みたいな
スーパースターが、飛び級的に出現してくる。

日本でも、ドリフトの裾野を思いっきり広くして、
滑ってるのが当たり前の世界から、世界へホップ・
ステップ・ジャンプするやつが出てこないとも限らない
……これが、ドリコンGPを始めた本意だった。

そして、もうひとつは、ドリフトを通じて、一度は諦めた
レーシングドライバーという憧れに、再挑戦できる機会を
設けたいということ。子供の頃夢見たレーシングドライバーという
存在は、歳をとるのにしたがって、それほど簡単でもないことに
気づかされる。そこで、大半の人間は諦めて、大工さんになったり、
サラリーマンになったり、チンピラになったりと、転身してしまうのだ。

だけど、ドリフトを通じて、一度は諦めた夢に、
もう一度挑戦することができれば……いいんじゃない? 


そうやって始めたドリコンGPで、織戸くんという
スター性を持った存在に出会った。

 

「チャンスだ!」と思った。そこにきて、坂東さんからの申し出である。

織戸くんに話した。これまでの仕事をやめなければいけないこと、
将来性はまったくわからないこと、織戸くんの人生が
変わってしまうかもしれない(いい方ならいいのだが、
悪い方の可能性のほうが高い)こと。

「ちょっと考えさせてください」と言った織戸くんから
返事をもらったのは、数日後のことだったと思う。

「やりますっ! どうなるかわからないけど、やらないで
後悔するより、やって失敗したほうがいいっすからね(笑)」

と、いつもの明るい声だった。

その後のことは、皆さんもご存知のことだと思う。

ドリコンGP出身の織戸くんは、レーシングドライバーの
織戸選手となり、現在も活躍中である。よかった、
と、いまでは思う。もともと性格もいいし、明るいし、
そして、なによりも華がある織戸くんだから
……そう思っていたけれど、こんな風に、
いい感じになるとは、予想はできなかった。

その後の織戸選手とは、それほど触れ合うことも
なかった(他の担当者がいたし、織戸選手もどんどんと
忙しくなっていったからね)。

でも、応援する気持ちは変わらずあった。
織戸学という存在があったから、それに続くドリコンGPの
チャレンジャーは、ドリコンGPから、レーシングドライバーという
道を歩むことが可能だと思ったし、事実、そうなっていった選手も多い。

織戸選手以降のドリコンGPの優勝者に対する賞品は、
海外のレーシングスクールへの体験入学であった。
「ドリフトの賞品がレーシングスクール?」と、
いろんなひとから不思議がられたのだが、元来の目的が、
世界へのホップ・ステップ・ジャンプなんだから、
自分のなかでは当然のことだった。

レーシングドライバーになる!という、当時の織戸くんの
決心が、いまの状況を生んだわけだが、
ヒトの決断というのは……非常に面白い。


船橋港のドリフト少年に始まり、ドリコンGPの
グランドチャンピオン獲得。そして、次なる
ステップがレーシングドライバーへの道だった!






       



以下は、CARBOYのMOOK本の表紙撮影に協力してくれた
織戸選手に対する、藤本からの奥付(一番最後に書く
編集後記的なもの)です。当時の感じがわかると思うので、添付しました。

いいヤツである。ドリコン出身で、レースをやりたくて、
単身飛び込んでいって、運もツキも、自分の明るさと
人柄で次々と手中にしつつある。他人から見れば
順風満帆のように見える織戸学……である。
もちろん、隣の芝生はよく見えるという諺のように、
隣の織戸はよく見えるのである。

だけど、今回のストリートバトルを制す?の表紙を
考えていたとき、フッと織戸学の顔が浮かんだ。
前回は不良っぽさ満々の中井啓である。
そのギャップは面白いと思ったし、最近の織戸学には、
なんだか引きつけられていくような魅力もある。
いいかな? そう思って撮影に協力してもらうことになった。

たった一枚の写真を撮るために、織戸学は、何度も
何度も走ってくれた。カメラマンはいい絵を撮りたいから、
いつまでたってもOKを出さない。もう一回、もう一度、
そう言って織戸学は走らされ続けた。

だけど、織戸学だって人間だ。疲れもすれば、
それが原因になって、無口になる。撮影も終盤に
さしかかっていたとき、疲れてきた織戸学が、
やけくそ気味に腕を振り回しながら、必死のジャンプ
……結局、オレはこの一枚を採用した。

何カットも何カットも走って、ジャンプする織戸学のうち、
たった一枚のポジフィルムだけが、妙に胸を打つのだ。

後ろ姿だから、知らないひとには織戸学だとはわからない。
手だって、どうして振り上げているのか、理解に苦しむ
ひともいるかもしれない。だけど、この一枚なのだ。
ジッと見ていると、織戸学という人間の片鱗が感じられる。

周囲のプレッシャーと、自分に対する不安感、
クソッ、負けてたまるか!という激しい気持ち
……ルーペでずっと見ていると、いろんなドラマが
見えてくるような一枚だと思った。

車検制度の変化で、チューニング業界もずいぶん
変わってきている。ネコもシャクシもチューンチュンである。
知らねえよ。オレたちゃそんなこたあ知ったことじゃねえ。
ただ、クルマを速く走らせたくて、
誰よりも速く走らせたいだけなんだ。
それが十数年も、CARBOYという雑誌を
支え続けている熱い気持ちなのだ。

そして、それに対して「そーだ、そーだ、
難しいことはわかんね~けど、そーだそーだ!」と
言ってくれるヤツらがいるから、CARBOYも
突っ張り続けていける。ストリートだろうが
サーキットだろうが、自分たちの大切にしていることを、
トコトンやるってのは、そんなに悪いことじゃ……ないはずだ。(藤

)
















      





 

 



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