アメリカ本土のドラッグレースに遠征し
インポートマシンのクラスで連続優勝
エスコート(埼玉)





全国ドラッガーの夢が叶おうとしている
アメリカ本土のドラッグレースに遠征し
インポートマシンのクラスで連続優勝
エスコート300ZXをドライブする
塩原選手が2001年度のNHRA&NIRAを制覇!!

下の動画は、2017年2月にエスコートさんで撮影したものです。
当時のドラッグ情勢を話しながら、NHRAへのチャレンジの話を
塩原さんから伺いました。2001年ということは覚えていたのですが、
あの、3.11テロのすぐ後ということで、マシンの通関や、その後の
対応が、非常にシビアだったこと、荒れた路面に慣れていたため、
そういうコースでレースを行うときに、
日本人ドライバーが勝っていたこと、

……などなど、なかなか聞けないお話しを伺いました。
お時間のあるときに、どうぞ。

CARBOY 2017 reborn #7 『ESCORT 塩原 浩』

下の動画は、2017年2月にエスコートさんで撮影したものです。
ドラッグマシンのバーンアウトからドライホップ等、一瞬のうちに
行われる動作や車内での話を、楽しく伺いました。


CARBOY 2017 reborn #8 『ESCORT 塩原 浩』

下の動画は、エスコートさんのドラッグプロモーションビデオです。
今後登場してくるESCORT TYPE M等の画像もあります。


Flash Playerが入っていないAndroid端末の場合は、
上の動画を見ることができませんので、下記をクリックして
Youtubeで見ていただけますよう、お願い致します。



♦2001年記載♦

CBゼロヨンは、1981年に始まった。
ということは、もう20年以上たってしまった
ということなのだが、当時のゼロヨンアタッカーは、
ストリート仕様のS30ZやSA22Cをベースに、
当時としてはフルチューンエンジンを搭載し、
サスペンションはと言えば、強化ショック&S/Pのみ。

それが、あれよあれよと言う間にドラッグ専用マシン
→フルパイプ仕様と過激にステップアップしながら、
現在に至っているわけだが、当初はアメリカ本土の
ドラッグレースというのは、夢のまた夢。
カンケーねえよ……という感じだった。

だが、自作フルフレームに加えて、アメリカの
フレームメーカーが製作したフレームをベースに
製作されたマシンが登場してきた頃から、
皆の意識のなかに「いつか、いつの日にか、
日本のドラッグマシンがアメリカのマシンを超える」
という希望が芽生えてきた。

もちろん、その当時でも、
ガソリンエンジンを搭載する最高峰である

プロストッククラスというのは、雲の上の存在、
いや、雲の上にもうひとつ雲があって、遥かその上の存在だった。

だが、国産プロストックがターボパワーでもって、
8秒台、そして7秒台とタイムアップしてくるうちに、
雲の上のまた上という存在だったアメリカの
プロストックマシンのタイムに肉薄してきたのだ。

2年ほど前のアメリカでの優勝タイムは6秒9、
現在は6秒75というところまできているのだが、
国産プロストックの最速マシンであるHKSスープラは
先日7秒2台を叩き出した。

同じ土俵とは言えないまでも、アメリカ勢の雲に
手がかかったという状況が現在のところなのだ。

だが、悲しいかな、レギュレーション等の問題が
いろいろあって、アメリカのプロストッククラスに、
国産プロストックがエントリーすることはできない。
これまではインポートマシン(輸入車)のドラッグ大会が
エキシビジョン的に行なわれていただけだった。

だが、ここに来て状況がググッと変化してきたのだ。
というのも、アメリカでも日本車は非常に多い。
こいつを使ったドラッグマシンが増加の一途を
たどっているということもあって、ドラッグレースを
主宰する団体が、インポートマシン専門のクラスを作って、
それでシリーズ戦を展開するという動きが高まってきたのだ。

もともと、日本でも知名度の高いNHRAは、
ナショナルイベントのスポンサーがウインストン。
だが、インポートクラスはサミットがスポンサーで
開催されることとなった。

そして、NHRAよりは先行団体として、
NIRA(ニラと呼ぶひともいるナイラともいうらしい)、
そしてモービルワンがスポンサーのWIC等があった。

なかでもインポートクラスに力を入れていたのが
NIRA(年間8戦行なわれた)なのだが、2001年度は、
NHRAのイベントも6戦ほど行なわれたというわけだ。

というところで、大体のことはわかっていただけただろうか? 
インポートクラスとはいっても、ストリートマシン程度の
ものから、フルパイプのプロストック程度のクラスまで、
いろいろとクラス分けされているのだが、
このトップカテゴリーにチャレンジしたのが、
今回紹介するエスコート300ZXであり、
ドライバーの塩原選手なのだ。

そして、ドラッグの本場中の本場コースである
ポモナで行なわれた、NHRAのプロクラスで、
エスコート300ZXは、堂々の優勝を果たしてしまったのだ!!

拍手〜〜〜ッ!!であります。快挙と言ってもいいと思います。
日本のドラッグマシンの実力だと言ってしまえば
そうかもしれません。だけど、実際に向こうに行って、
シリーズ戦を戦っているドライバー&マシンを相手に、
優勝するというのは、ホントにハンパじゃありません。

そして、です。2001年度9月29&30日に行なわれた
NHRA戦に続いて、10月21&22日に開催された
パームベールというコースで行なわれたNIRAの
プロインポートクラス(つまりは最速クラスですね)でも、
NHRA戦に続いて優勝!!

しかも、であります。NHRA戦では終速184マイルで
このクラスのコースレコードを塗り替え、NIRA戦では、
7秒40と区間タイムのコースレコードと終速183マイルで
走法の記録を塗り替えるというオマケ付き。

「クルマを向こうに送って、事前車検、サーキットに
到着して申し込み(プロクラスは当日受け付けOKだったのだ)、
そして土曜日の予選、日曜日の決勝と、それこそあっというまの
出来事でした。でも、決勝トーナメントを制して、
リターンロードを戻ってくると、TVクルーが待ち受けてるんです。
これまでNHRAのビデオで何度も見たヒーローインタビュー、
そいつが、オレに対して行なわれると思うと、なんとも
言えないくらいに嬉しかったですね。勝てるとは
思っていなかったんですが、NHRAのレースに出る
というのは、オレたちにとっては、夢だったから、
それが現実になって、しかもヒーローインタビューを
受ける立場になるなんて……予想もしてなかったけど、
だけど、嬉しかったね」

決勝ラダーは、各地を転戦しているトップドライバー同士で
行なわれることが多い。だが、今回はそこに初参加の
エスコート300ZXが登場したもんだから、注目度はバツグン。

予選時はなかなかタイムが出せていなかっただけに、
完全にダークホース的な存在だった。

だが、決勝トーナメントに入ると、7秒5、4台の
トップタイムをマークしながら、ドンドンと
勝ち進んできたもんだから、アメリカ人もビックリ(?)。
強烈にグリップするポモナのコース初体験の塩原選手だが、

「これだけコースがいいと、全然不安感ないし、
仙台のままのセッティングだったから、
60フィートが悪すぎるんだけど……1回戦の
対NSXはタイム差が0.6秒くらいあったので余裕。
2回戦は相手の3ローターがコースインできず不戦勝
。決勝は7秒44をマークしているフォードフォーカスだった。
こいつのリアクションはコンマ46秒と言う強烈なもんだから、
スタート直後は相手のリヤが見えたくらいに離された。
だけど、2速後半から3速に入れる頃には
『こりゃ、かわせるか?』とおもって、4速で抜いたんですよ」

NIRAのパームベールの戦いでも、決勝の相手は一緒。
だが、このコースはポモナに比べて非常に荒れている。
だから、ポモナ以上のタイムをマークする塩原選手は、
相手にとって「オー、クレイジー!」と映っていたようだ。

「でも、オレたちはいつも仙台走ってるからね、
仙台のほうが怖いよ」とは塩原説……と、
ここまで紹介したところで、急に最新NEWSが
飛び込んできた。「11月17日に行なわれた
カリフォルニアFAMOSOレースウエイで行なわれた
IDRAのバトルオブインポートでまたも優勝しました!」
という一報である。

しかも、またもや区間&終速のコースレコードの
オマケ付き乗りに乗りまくってます。2002年度も、
国産勢のアメリカ逆上陸作戦が盛んになる??







 


下記は、当時のNHRAのWEBページに掲載された、
ジャパニーズドラッガーの様子を伝えた
貴重な資料です。いかに戦い、いかに苦戦し、
いかに勝利したか……が偲ばれます。








上記英文のGoogle翻訳

NHRA紹介記事 2001年

日本の侵攻、2001年から2002年まで、NHRAスポーツ
コンパクトシリーズで競合する大部分の自動車は、
日本の起源であることを誰もが知っています。ホンダ、
トヨタ、マツダ、アキュラスなどは、 しかし、2001年から
2002年にかけて、Proクラスは、アメリカに来て、
北米最高のクォーターマイルパイロットと戦うために
米国に来たトリオの日本人レーサーを迎え、実際に
ウォリーズと国内記録を持っていきました。

2001年に開催されたPomonaの決勝戦では、埼玉県戸田市の
塩原浩が2度目の日本GPのRRCシリーズチャンピオンに初優勝し、
慎重な「新」ミヤノ調整ターボチャージャー 3.2リットルの
VG30DETT V-6日産自動車の300 ZXが、国家記録の両端を設定している。
皮肉なことに、エスコート日産は、悪名高いテロ攻撃の前日である
2001年9月10日に日本からの輸送用コンテナを介して到着し、
その結果生じた通関手荷物にこだわっていた。

ここでチームのオデッセイの完全な説明を読むことができます。
塩原は2002年と2003年に時折優勝したが、ポモナの2003シーズンで
8位に輝いたが、ジョージ・イオナノウとマット・スクラントンは序盤に勝利した。 Stephan Papadakisがセンターラインを越えたときに勝つ。

2002年5月、HKS-Drag Nissan 180SXを用いて、静岡県富士宮市の
川崎哲也が英国タウンを襲った。川崎のツインターボ2.8リッター
RB26DETTを搭載したマシンは、Nitto Tires NHRA Sport Compact Nationalsを、1906.2マイルで1906.2マイルで7.18でナンバー1を獲得した後、
ファッション、ワイヤー・ワイヤーで納得して優勝しました。

記録。その後、Ara ArslanianのBullish Racing Solara、
Efren Vasquez(Abel Ibarraの旧スクールのK&N Mazda R1000)、
そして最後のJohn Lingenfelterのサミット支援ソノマピックアップ
を破りました。その翌月、川崎はオーストラリアをも征服し、
その国のドラッグコンバットを、全車駆動の日産スカイライン
GT-Rと合わせて勝利させました。皮肉なことに、川崎氏は
E-Townに出展して展示を行うだけだったが、好きな場所に惹かれて
イベントに入った。川崎は決して別のイベントを決して走らなかったが、
彼のマークを残していたし、最終的にはその1つのレースに
基づいて2002年のNHRAの順位表で10位に終わった。

塩原浩と川崎哲也は、名古屋の名古屋からの脇田忠利のツアーに参加した。
そのBlast Racing Lexus SC400は、ツインターボの4.9リッター
2UZ-FE V-8を搭載し、印象的なサブナショナル記録である7.38を打ち上げた。

2001年後半のテストと2002年の新型V-8クラスでは好評だったが、
シーズン最初の2つのイベントでのみ競い合い、Gainesvilleの
グラント・ダウニングに対する第1ラウンドの損失で最高7.56を走った。
(Gainesvilleは2002年シーズンの唯一のレースで、V-8は
他のエンジンと競い合って自分たちのクラスに入ることができたので、
Gainesville Proフィールドでは塩原とWakitaの2人と5人)
また、WakitaはE-Townのラウンド1でCraig Paisleyに敗れた。

WakitaはPomonaの2002年シーズンフィナーレで最終ラウンドを終え、
レースレポートでは、スクラントンがNHRA Sport Compactの
歴史の中で唯一の無敗のシーズンを完了できるように、
月曜日の最終戦でScrantonに赤信号をつけた。 Wakitaは
2002年のPro V-8ランキングで4位に入った。

ポモナで勝つ

塩原浩とチームエスコートは、最初の米国レース、マツダNHRA
インポートワールドファイナル、そしてカリフォルニアの
次の3レースで優勝しました。

Pomonaでは、ShiobaraがチームのWillie RellsのNissanを4位とし、
7.93でリードパックの3分の1をマークしましたが、
7.67をマークしてDan BollschweilerのSaabに勝利を収めました。

準決勝では、Siguel Mazdaは第1ラウンドのソロを壊して
ノー・ショーだった。 塩原と赤い日産はそれを楽にしなかったし
、誰もが7.89秒の爆発で182.81マイルに驚いた

シラロックはNHRの全記録を7.44で制していたが、シーズン
チャンピオンシップをロックするために塩原を破ったが、
塩原がシーズンチャンピオンシップで7.452を奪った時、
クラスの最初の2度の勝者になる機会は否定された。
強力なフォードのオフペース7.64を下回る184.46マイルの全国記録スピード。
塩原はR.J.を克服することができました。
Simrockの勝利を引き出すためにPomonaの最終的なホールショット。

"それは夢が実現するような信じられないほどだった!"
通訳を通じて、塩原さんは言った。 「欲望を味わった
ウォーリーに勝つための日本人初の日本人になりたかった。
正直言って、日曜日の朝までには本当に勝てないと思った」

真実は、チームの勝利 - そしてイベントへの出席さえ
はそれのずっと前に疑問だったと言われます。

長い奇妙な旅行

チームはテクニカルディレクターのジョン・ダフが
2年前にシオバラへの米国でのレースを提案したにもかかわらず、
7月まで米国でレースを約束しなかった。 NHBが輸入競争に
巻き込まれるまで、川崎哲也や小野祥郎などの有名な
日本のドラッグレーサーたちは、親友である塩原氏を信じていなかった。

車は、ニューヨーク市のテロ攻撃の前日である9月10日から出荷された。
その車は9月17日にカリフォルニアに到着したが、米国税関の
残高のために、9月27日まで、ポモナのイベントの数日前に
その車はチームに放出されなかった。

ポモナの勢いに乗って

Shiobara、乗組員チーフ/ゼネラルマネージャーの宮野進一、
そしてPomonaの勝利の勢いを基に構築されたエスコートチームは、
野外で740、184.78mphの爆発を2,700フィート標高LA郡路は、
IbarraのNIRAイベントに勝利するために、7.29,187mphの
海面上のパフォーマンスを考慮した走行です。

塩原は日本で20年の運転経験を持ち、さまざまな日産と
ダットンのマシンを操縦しています。

その後チームは北部をベーカーズフィールドまで走りました。
完璧な軌道条件ではありませんが、塩原が187マイルという
新しい記録を打ち立てたので、ファクタリングの数字が
正しいことが証明されました。塩原は、アダム・サルワタリが
最終ラウンドを行うことができなかった時に再びイベントに勝利した。

そして、塩原の経験だけがトラック条件が悪化したときに
ニッサンを拭き取ることから彼を守った。彼はわずか55マイルで
22秒のラップにシャットダウンした。「もう一日戦うために生きる!
Sun Tsuの言うとおり、チームの情報ディレクター、
Hooell Monleon氏はコメントしています。

チームは12月の第1週にLA郡馬車道に戻り、Simrock、
Ibarra、Saruwatari、Efren Vazquez、Tatatoshi Wakitaの
Blast RacingのツインターボV-8 Lexusを含む厳しいフィールドで
勝利を収めた。その後、展覧会では7.38、184マイルを走った。
塩原は第1位の資格を得て、決勝ラウンドでは赤い灯台を倒した。

「私たちは標準的なパーではなく、ただ運が良かった」とモンレオンは認めた。
「私たちのクラッチは最後の足にあり、トラックの準備は望ましくなかった。
来年、私たちは袖の上にエースをいくつか持っているが、
すべてのカードが扱われるまで手を出すことはない」

2002年を目指す

エスコートチームは、KKKターボチャージャー(ポルシェ930ターボで
使用されているターボチャージャーと同じ)とステージ1の窒素システムからの
ブーストを受ける3.2リットルのVG30DETTパワープラントから、
タップされる可能性がまだ十分にあることを知って、
クルーのミヤノがストックブロックの周りに組み立てたエンジンには、
日本のエスコートレーシングプロダクトでピストン、カム、ク
ランクシャフト、マニホールドが取り付けられています。

5スピードのLencoトランスミッションはL&Tクラッチを通って
Mark Williams rearend(リッチモンドピニオンとリングギアでいっぱい)に
通し、MonocoqueのホイールにGoodyearスリックで撃ちます。

Motec燃料管理システムとMSDイグニッションシステムは、
ハートビートを制御します。 RacePacデータロガーは重要な統計情報を保持します。

エスコートレーシング日産300ZXは、ターボチャージャーと
窒素供給ストックブロック3.2LのVG30DETTパワープラントを
搭載しています。チームは2002年に最高のパフォーマンスである
7.40,187マイルを上回ることを期待しています。

チームはまた、Lenco、Ned Tanson、Ernie Soliz、Toro Oils、
Maximum Power TechnologiesのBe??to CampaにGaryと
Dave Sumekに感謝の意を表しました。

イーストウエスト・エンジニアリングのボブ・イーキンズは、
次のシーズンに向けて新しいクラッチを組む予定で、チームは
それが7.10代で容易に実行され、欲望に満ちた200mphの
障壁で這い上がると予測している。

チームは、2002年に行われたNHRAサミット・インポート・
ドラッグ・レーシング・シリーズの全イベントで競り合う
スポンサーを募集したいと考えている。塩原氏は、
彼が経験した競争と友情を本当に楽しんだと述べた。

「それはレーサーの非常に良いグループだ」と彼は語った。
「彼らは非常に親切でフレンドリーで、僕たちに殴られても
良いスポーツだ。スポーツマンシップのタイプは期待できないだろう。

今年の「ブロックの新しい人」は来年の「ブロックのいじめ」
かもしれません。 1つのことは確かです - 誰もが彼が
どこから来ているのか、彼がそこに到達する能力は
どれくらい速いのかを知っています。















エスコート
〒335-0034 埼玉県戸田市笹目4-19-4
Tel 048-421-9443


www.escort.ico.bz/

国内ドラッグレースの牽引的な役割を果たしているプロショップ。
埼玉と仙台に店舗を展開し、エンジンビルダーとして、またVプロを
使ったセッティングやオリジナルピストンの製作、アメリカ直輸入の
ドラッグ関連パーツの販売、ミッキートンプソンタイヤの国内代理店
として、八面六臂の性格を持っているのがエスコート。オーナーの
塩原さんは、NHRAドラッグへの参戦&優勝経験を持つ国内でも
有数の現役DRAGGERでもある。作り物の上手さと
クルマ作りの丁寧さはピカイチ。



■ これまでのESCORTの履歴 ■

 

 アメリカ本土のドラッグレースに遠征しインポートクラスで連続優勝

   S30Z改Vプロ仕様インジェクション
   GC10インジェクション2017 STREET仕様
  シーマVH41の8気筒NAをZ32にスワップ!!
  アルファロメオにFJ24搭載!!
 

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