もうひとつの六甲伝説
1986年頃

できるだけ走る場所を潰さない
そんなことを考えていたけれど、
やっぱりたまには取材したくなる?

CARBOYは、夜の峠や、ゼロヨンコースを、
できるだけ取材しないようにしよう……というふうになっていった。

もちろん、現場で取材したいのは、やまやま、である。
しかしながら、取材したはいいけれど、その後の惨状ときたら……。

そうです。雑誌に載ったから、有名だから、誰それが走っているから、
色んな理由はあると思うのだが、発売日を境にして、その峠や
ゼロヨンコースは、驚異的な混雑状態に陥り、
状況を知らないひとが事故り、警察に通報が行き、
取締が強化され、あるいは検挙という事態にも発展し、
その結果として、コースは閉鎖(というのはおかしい言い方だろうが)。

バカでかいキャッツアイが設置されたり、センターポールが強烈になったり、
はたまた、オマーリさんの巡回コースになったり。

全国の峠や、ゼロヨンコースは、このようにして廃れていった。

1984年だっただろうか、岡山の鷲羽山ドライブウエイのことを
掲載したことがある。当時、企画としてやっていた
全開ダーマン(いやあ、これもスゴイネーミングです。これは橋本さん命名)が、
鷲羽山を走って、何秒!!という記事だった。

これに、思いっきりお怒りになったのが、岡山県の交通機動隊の隊長さんだった。

「CARBOYなんて、暴走族雑誌はけしからんっ!」

そういう話を聞いたのは、ファニーレーシングの花土さんからだった。
「藤本さん、いっぺん話しをしたいというとんのじゃけど、どうする?」

しばし考えた末、藤本が出した結論は
「八重洲出版としては行けないけど、CARBOYの編集者としてなら、行きましょう」

そして、花土さんと一緒に、岡山県の交通機動隊本部に行きました。

最初は、隊長さんはエライ剣幕でした。

「暴走族雑誌が、煽るから事故が発生する」
「こんなもの、百害あって一利なしじゃ」
「なにを考えて作っとんじゃ」

花土さんは、隣でニヤニヤ笑っていた。

ひとしきり話を聞いたあとで、藤本も話を切り出した。

「おっしゃってることは、非常によくわかります。
正論だと思います。でも、正論でどうなるんですかね?」

「ナニッ? な〜にを言っとるん」

「いえ、だから、交機さんが言うことはわかります。
でも、雑誌がなかったら、夜中に走るヒトたちは走りませんか?
そりゃあ、警察がいたら、スピードを落とすでしょう。
アクセルも抜くでしょう。でも、パトカーがいなくなったら、
そのままおとなしく走りますか?」

「…………」

「そりゃ、CARBOYみたいな雑誌は、いろんな害を撒き散らしてるかもしれません。
でも、若い人達は、悪気な先輩の言うことだったら、けっこう聞くんですよ。
それに、CARBOYのなかで、『赤信号なんか関係ないっ』だとか、
『ヒトがたくさんいるところでスピードを上げろっ』だとか、
そういうことは、絶対に書いてませんよ。エンジンの出力が上がったら、
危険だからブレーキを強化しようとか、コーナリングスピードが上がったときに、
ノーマルのサスペンションじゃアブナイとか、そういうことばっかりです。
警察の方から言わせれば、違法改造するな!となるんでしょうけど、
道路運送車両法の冒頭には『自分のクルマは、自分で面倒を見なさい』と
デカデカと書いてあるんですよ。安全に運行できるように、車両を管理するのは、
所有者の義務なんですよ」

さっきまでおとなしく拝聴していた人間が、いきなり反論を始めたので、
交機の隊長さんはビックリしていた。隣の花土さんは、もっとニヤニヤ。

「でも、スピードは違反してるでしょ!」

「おっしゃるとおりです。スピードは完全に違反してます。でも、混雑した
街中でアクセルを踏めっ!とそそのかしているわけではなく、人気のいない場所、
通行車両がいない時間帯、そういうものを使って走ろうと言ってるんです。
違反は、違反です。でも、若いオトコが、クルマに乗って、制限速度を
守ってばっかりいられますか? SEXとクルマの運転は、オトコの見栄なんです。
ヒトより上手い、ヒトより速いって認められたいというのが、人間の本能なんです。
スピードを出すのは、『本能』なんですよ。それを『理性』や『常識』で、
押さえ込んでるんです。空いた道路、自分で安全だと思う速度域、他人が走っていない時間帯、
そういうものを『理性』や『常識』を使って、場所や時間を選んでるんです」

「違反は、違反だ」

「じゃ、隊長さん、これまで、一度も速度違反したことないんですか?」

「あたりまえだ」

「じゃ、『理性』や『常識』が、ひとなみ
優れていらっしゃるんでしょう。
でも、大抵の人間は、そうじゃないですよ……」

話は2時間くらいかかったと思う。
最初は建前ONLYだった隊長さんも、次第に軟化してくれた。
そして、最後の最後の結論は、

「とにかく、ウチの管轄内で何秒とか、そういう数値を雑誌に載せないでくれ!」

「わかりました。ま、何秒とかって書くと、ムキになるヒトが多いですし、
そのせいで、無茶をして事故ることも多くなると思います。書きません」

…………花土さんは、ニヤニヤしっぱなしだった(笑)

帰り道、岡山駅まで送ってくれたんだけど、そのときに、

「いやぁ、藤本さん、本当に来るとは思ってなかったけど、来たね(笑)」

「むこうでどんな話をするのか興味深かったけど、面白かった」

とまあ、褒め言葉とも、冷やかしともとれる言葉でねぎらってくれた。

おっと、ちょっと長くなってしまいましたね。


というような経緯もあって、CARBOYでは、できるだけ取材を控えるように、
取材するときは、場所が特定できないように……というふうな取材原則を
敷くようになっていった。ま、CARBOYがそう思っていても、
他の雑誌では、バンバン登場するので、あまり効果はなかったと思うんですが(笑)

今回紹介するのは、東の首都高に対抗した六甲であります。

ンッ?? 首都高に対抗するなら、阪神高速の環状線じゃないの?
そうですね。当然のご質問です。

でも、当時の環状は、エラいことになっていました。
藤本自身も、環状の実態をチェックしにいったことも数度。
でも、出した結論は「いやぁ〜、これは触らんとこ」でした。
暴走族と走り屋の線引をしようと画策していたCARBOYですが、
環状の状態は、そのボーダーラインのちょっと暴走寄りでした。

ま、首都高も、上ってくる人数が増えるに従って、環状化していったのですが、
当時は、その比じゃなかったように感じましたね。

で、『六甲』です。

六甲とマリンタワーとは、なんの関係もありませんでしたが、
やっぱり、ドドーンッ!とタイトル遣いしました。
これはもう、性格ですね。嘘でもいいから、雰囲気優先(笑)

ま、六甲と言ってもいささか広うござんすでありますが、
写真を見れば、地元の人間なら「あ、あそこか」とわかってしまいます。
そして、集まっているクルマのステッカーを見ると……フジタエンジニアリングです。

藤田さんは、藤本と同級なのだが、当初はCARBOYゼロヨン等に
マメに来てくれていたのだが、自分が好きなのはワインディングであり、
サーキットのタイムアタック的な走りだと、次第にそちらの方に
重点を置くようになっていった。

フジタエンジニアリングさんに協力してもらって撮影をしたわけだが、
このときも、撮影終了間際に、1台のマシンがクラッシュ。
それが、撮影終了の合図(?)となり、散開したという記憶がある。

夜の写真撮影、それも峠やゼロヨンコースというのは、
非常に難易度が高い。このときのカメラマンは、大阪の鉄谷さんだった。
普段は、ほとんど寝ているようなイイひと(先日の森岡さんと同等か?)なのに、
このときばかりは頑張ってくれたと思う。

1986年と言えば、ほぼ30年前。そんな時代には、夜中に蠢く走り屋が、
全国各地に存在した。そんな時代でしたなぁ〜。

原稿を読んでいただければ、理解していただけると思うのだが、
そのなかには、「こんなスゴイ奴らがいる」とか「何分で走りきる」とか、
そういった類のことよりも「あとから来たヒトたちが無茶をするな」とか、
「そのコースのマナー的なものを把握してほしい」とか、
そういう説教じみたというか、お願い的な調子が目につく。
本当に、そうなってくれればいい……と思ってたから。

 

 

 



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