100号目を迎える頃には
スタッフの数も、ずいぶん多くなり
なんとか軌道に乗ってきた?

先日お届けした『創刊100号記念!! 楽しく走ろう企画』
でありますが、楽しく遊ぼう宣言的なものでしたが、
こいつには、モノクロページもありました。
そんななか、当時のCARBOY編集部&周辺スタッフの
紹介ページが存在しておりました。

上の記事の、下段にズラッと並んでいるのが、
1988年当時のCARBOY編集部&スタッフ一同でございました。
懐かしい顔、亡くなった方(3名)、行方不明の方、
隠遁生活に入られた方……人生悲喜こもごもであります。
で、そんななか、ふっと気になったのが、NG特集の
なかでBSポルノ事件……でありました。
当時、藤本が好き勝手に作っていた色物ページで、
BSから発売された新製品タイヤであります、
BSレグノをパロって、「BSポルノ」としたものでした。
たしか、広告内では007のショーンコネリーだったと思います。
こいつをもじって掲載したところ……
BSさんが思いっきり怒って、広告出稿を取り下げる。
そういう事になりました。
ハハハッでございます。
ま、価値観の違いなんでしょうが、
そいつを掲載したのが、『くるま少年新聞』というコーナー。
言ってみれば、青春指南道場の前前身でございます。
青春指南道場的なページは、CARBOYに藤本が
入植してから始まって、1981年から2001年までの
20年間連載されました。
くるま少年新聞→健康少年→青春指南道場の順でした。
しかしながら、健康少年→青春指南道場の17年分は、
記録があるのですが、くるま少年新聞時代の3年間というものは、
余り記録が残っておりません。
特に、初期のもの、そして、BSさんをど怒りさせた
月号の記録は、探してみたのですがありませんでした。
唯一残っていたのが、下記のものです。

くるま少年新聞 1982年9月 016号(月刊)
なんともはや、お下劣といいますか、
ストレートすぎると申しますか……。
ただ、ここに登場していただいた方と、
冒頭のCARBOYスタッフを、照らし合わせていただければ、
いかに、三ちゃん農業的な状態であったかを、想像していただく
ことができるんじゃないかと思います。
◇ ◇ ◇
こういうことをやっていた輩が、
創刊100号を迎えて、下記のような偉そうなことを
くっちゃべることとなります。
拝啓、日産自動車蒲l
拝啓、日本警察機構様
……であります。
ま、自己反省も入れてはおりますが、
なんだっつうんです、クルマ雑誌が、
どうしてこんな記事を、作るんです?
ま、ノリノリだったと言うしかないですかぁ。




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