ひとりの女のコに追悼文を捧げたいと思う。
怖いもの知らずの走り屋だった。
ゼロヨンがすきで、深夜になるとピンクの
RX-7を駆って13Bペリでカッ飛んだ……のだが。
今回は、非常に恥ずかしい話をご披露させていただきます。
1987年といえば、ストリートゼロヨンが、全国的に全盛期を
迎えていたころだった。編集部にやってくる読者の方から、
横浜のピンクのRX-7を駆る女のコがいて、その彼女が
亡くなった……という話を聞いた。
いろんなところに連絡をとったり、話を聞いた。
そして、そんな話を元にして、追悼文を書いた。
ま、話というのは、往々にして尾ひれや背びれがつくものだが、
横浜界隈の噂をたどっていくうちに、いろいろなことがわかってきた。
そして、最後の電話いらい、ぷっつりと連絡が取れなくなったことも
事実だということを知った。
ですが、この追悼文が掲載されたCARBOYが発売されて、
しばらく経ったころ、編集部に一本の電話がかかってきた。
「あの〜、今月号の記事のなかの、
横浜のピンクのRX-7のことなんですけど……」
電話を代わってもらった藤本の耳に、衝撃的なひとことが。
「あれ、私なんですけど……まだ、生きてます」
雑誌編集に関わって30年ほどになるが、
このときの衝撃は、間違いなくナンバーワンだった。
一気に冷や汗が出たし、とっさになんと言っていいのか。
完全にパニックになっていた。
「いえ、大丈夫です。私のこと書いてもらって、
でも、いまでも、生きてますから(笑)」
そのとき、どんな会話をしたのか、正直言って覚えていない。
でも、翌日(だったかその次の日か)に、菓子折り持参で、
謝りに行ったことを覚えている。
だけど、そのとき、どんな話をしたのか?
ほとんどといっていいほど記憶がない。
彼女は、笑いながら許してくれたのだが、
ヒトの噂を信じて、記事を書くということが、
どんなにダメなことなのかということを、
そのときばかりは、心底思い知らされた。
ま、藤本の場合、けっこう適当に聞いて、
テキトウに書いてる場合が多いんですが(笑)
CARBOYをスキャニングしているうちに、
この記事を発見して、「アッ!」と思って、
やっぱり、そのときも、少しばかり冷や汗が出ました。
黒歴史でございますが…………………………。
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