あの……『異色の昭和ボデー』のまとめ!?
1983〜1986年頃

涙なくしては語れない!? LEGEND of CARBOY
噂と幻のマシン&チューンが蘇る
CB伝説vol.11



昭和ボデー大改ZV ---1986年---

 

ブラック企業、である。
営業時間が、午前6時から午後5時。
午後6時位に電話すると、「いま何時やと思うてんの?」
言外の意味としては『非常識な……』である。

30年間というもの、いろいろなショップやメーカーを
取材させてもらったが、こんな営業時間を持つ対象は、
初めての経験だった(笑)

でも、オジサンは本気だった。
チキチキマシンの本家本元、家元元祖。
昭和ボデーである。

なにしろ『ボデー』なのだ。断じて、『ボディ』ではない。

だみ声の東田さんは、FISCOではいつもサングラスをかけていた。
ReyBanでは、ない、と、思う。もっとイカツイなにか。

四国は徳島の昭和ボデーが、CARBOYにエントリーしてきたのは、
谷田部の自動車試験場時代の良い子ゼロヨンだった。

昭和ボデー大改Z!

エントリー車名には、誇らしげにそう記載されていた。
でも、実車を見たときに、心底納得した。
大改Z……だった。

そして、二代目、三代目と、大改Zシリーズは続き、
異色中の異色マシンは、谷田部からFISCOへと参戦を続けた。

このページでは、初代から二代目、三代目と、マシンができる度
取材を行った結果を紹介しているが、そのあとに……そうです。

まだまだみんなが知らなかった昭和ボデーの全貌が
隠されておりました。そして、藤本さえも、記憶の彼方にあった
東田さん自筆の昭和ボデー白書まで。

まずは、驚いていただきたい。
そして、コレほど馬鹿げたマシンを作り続けた人間が、
いたということを、記憶の何処かにとどめておいていただきたい。

いやあ、スゴイわ〜。

 

                                     ©八重洲出版 


異色中の異色マシン
独特のアプローチで製作される
トリプルターボDRAG
四国からエントリーしてきた昭和ボデーが
作り出すマシンは、異色中の異色。
10秒942というタイムをマークした
エンジンはトリプルターボ仕様のL型3L……。

 

午前6時。昭和ボデーの朝は始まる。

そして、午後5時には営業が終了する。

日本一早く始まり、日本一早く閉店する(?)
チューニングショップとして知られていたのが、
四国、徳島にある昭和ボデーだった。

だった……というのは、現在では昭和ボデー
という名称では、電話は通じないのだ。
たぶん、1990年頃にチューニングショップをやめた
……のではないか?という噂が飛び交って
いるが、定かではない。

今回もその後の昭和ボデーを調査してみたのだが、
その連絡方法はわからなかった。

だが、CB誌上における
昭和ボデーの威力は、
すさまじいモノがあった。

というのも、四国、徳島という土地柄か、
通常のチューニング常識にはまったく
囚われないマシン作りをしてくれたからだ。

「とにかく、真っ直ぐ走るだけなら、
自分の好きなようにクルマを作ってみたい」
ということで、最初はZをベースにして大改造を
施したドラッグマシンを製作した昭和ボデーは、
次第にゼロヨンマシンの魅力に取り憑かれていく。

そのマシンから2歩も3歩も飛んでいる大改ZU、
そしてもうひとつブッ飛んだ大改ZVと
きたのがこのマシンなのだ。

L28改3♀のエンジンは、70度カムを
組んだ圧縮比7.8のOER50φキャブ仕様。
そして、このユニットにOERタービンを
3基ドッキングしてしまったのだ。

設定過給圧は1.5kg/cm2。

ボディは、見ての通りの手作り鉄板SPL。
シャシー部分だけにZの面影が残っているが、
その他は全部社長さんの手作りだった。

ゼロヨン用にホイールベースを延ばして、
軽量タイプのボディ形状を持つマシンは、
ミッキートンプソンドラッグスリックを
装着したマシンは、掛け値なしに期待度大のSPLだった。

ただし、エンジンがハンパじゃないだけに、
駆動系が保たない。ミッション、デフ、
ドライブシャフトと様々なパートが、
次々と壊れてしまうのだ……だけど、
昭和ボデーの本当の価値は、壊れても、
トラブルが発生しても、それとは関係のない部分にあった。

「こんなクルマ作ってもいいんだ」

「ここまでやっても、大丈夫??」

とまあ、CBの誌面を通して、プライベート
ドラッガーの励みになってくれたことだ。

それまでのマシンの常識(?)は、
ノーマルのストックボディを改造して、
ストリートゼロヨンの延長にあった。

だけど、昭和ボデーの製作するマシンを
見ていると、なんでもありなのだ。
異色中の異色マシン。

もちろん、いまのドラッグマシンの構造や
常識から考えると、まだまだやれるところはあるし、
もっとタイムに結び付くマシン作りの方法論もある。

だけど、アメリカのドラッグとは違った
日本流のゼロヨンマシンの代表選手……なのだ。

この頃のゼロヨン状況は、この先どうなるのか、
どんなマシンやチューンがいいのか? 
混沌としていた。だけど、ゼロヨンと
いうレースにかける情熱はすごかった。

当時のオジさんたちは、本気のホンキでやっていたのだ!!

 

 


以下は、昭和ボデーの東田さんが、CARBOYの求めに応じて
書いてくれた原稿であります。

藤本も知らなかった東田さんの来歴や、考えが、いろいろと
伝わってくるものがあります。

初めて昭和ボデーを取材に行ったときのこと。
四国、徳島、港付近の立地ということで、
美味しい魚をアテにして、好きなお酒を頂いて、
楽しい出張になりそうだ……と、フェリーで徳島に、
到着しましたが、下記の原稿の通り、
東田さんはお酒を飲まない。
クルマ改造一筋。

そのとき、どうしたのかは思い出せないのですが、
翌朝の取材時には、思いっきり二日酔いだったことだけは
覚えております。なにしろ、午前6時過ぎにいった
取材なんて初めての経験でしたから、二日酔いというよりは、
まだ、酔っていた……といったほうがいいでしょね。

で、朝ごはんを食べに行ったのですが、
そのときのお味噌汁の美味しさは、それまでも、そして
それ以降も最高レベルだったことも、なんとなく覚えております。

ま、二日酔いで谷田部やFISCOでのドライバーズミーティングを、
何度もやっちまってる藤本ですから……。

 

 

 

 



■ 今だから話せる秘話(笑) ■

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