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一日中走りっぱなしの徹底勝負 ゼロヨン日本一決定戦!!

1983年04月号(谷田部自動車試験場)

セッティング不良やトラブルのいいわけを
許さない全日コース使用のゼロヨンサドンデス
思いっきり走った結果……日本一決定!!


                                       ©八重洲出版

その後何年かして、仙台ハイランドで川崎選手と会ったときのこと、
「そういえば、藤本さんはひどかったな〜」と言われたことがある。

「……????」

「ビルドサニーで谷田部に行ったときですよ、コースに入るときに、
『どのあたりに置いたらいいですか?』って聞いたら、荷台のサニーを
チラッと見て、『あ、あっちの隅っこの方に置いといて……』って」

「そんなこと言ったっけ?」

「いいましたよ。よ〜く覚えてるんですから(笑)」

…………言ったような気がします。

 

川崎選手は、この後、ビルドサニーに乗り、数々の優勝経験をすることになる。
そして、HKSのドラッグ部門のワークスドライバーとなり、その後の
HKSゼロヨンを始めとして、後進のドライバーに、様々なことを
伝えていくとともに、負けられない!という使命感を持ったドライバーとして、
稀有な体験を重ねていくことになる……が、その話は、また、いずれ。

 

註:画像は、拡大していただければ、かろうじて文字が読めるようなサイズに
してあると思うんですが……。よろしくお願いします。

 

最初に、谷田部の自動車試験場の総合試験路で行なった、
『ゼロヨン日本一決定せん!?』というふざけた名称のイベントを
終了してから、何度も、『良い子ゼロヨン』という名称で、
ゼロヨンイベントを開催した。

1981年度は、11月の第1戦に続いて、12月に第2戦、
1982年度の3月に第3戦。そして5月には周回試験路ギリギリを使った
ゼロセン開催。それが7月、12月と連続で行われたのだが、
……そのなかで、いろんな意見が出てきた。

「地元とセッティングが違って、いつもの実力が……」
「マイナートラブルがあって、本来の性能が……」
「路面が違うので、タイヤの選択ミスで……」

ま、いろいろと、言い訳はあったほうが楽しいのだが、
そういうことが重なると……じゃ、トコトン行きましょうか?
と思ってくるのは、人情というものじゃないでしょうか。

4月号で大々的にゼロヨンを取り上げます。
丸一日借り切って、何度でも走れるという状態で開催予定ですので、
細かな言い訳ができないほど、時間がたっぷりあります。
予備のパーツ、タイヤ、あるいはエンジン交換もできるかもしれません。

ですので、思いっきり走っていただいて、日本一を決めましょう!!

こんな予告をして、公募で集まってくれたマシンが52台。

お昼休憩をはさんで、回数無制限でのタイムトライアルを開始した結果、
一番多く走ったマシンで、25回。2番めは19回。
トライ回数と、途中で行なったセッティング変更点をすべてチェックして、
行なったのが、今回紹介する「ゼロヨン日本一決定戦!!」

当時、ゼロヨン仕様のトップクラスのマシンが集まり、
回数無制限で走るという、なんとも無謀なイベントでしたが、
そのトップタイムをかっさらったのは、


「あ、そのへんの隅っこに置いておいて……」と藤本がすげなく言った、
ビルドサニーでありました。しかも、タイムは11秒069。

この後、ビルドサニー&川崎選手の組み合わせは、
記録更新とドラッグレースのトップランナーとして、
RRCドラッグレースや、CARBOYゼロヨンを走り続けていくことになる。


エントリーしたマシンは、後にエスコートとなる塩原選手のマウントZ、
東京日仏レーシングZ、RE雨宮ペリ、ユアーズ7、
大阪L型パワーのファクターZ、MレーシングZ、
ウラタレーシングZ、ターボセンターメカニカルZ、
名古屋のデイトナZ、中国の吉田レーシング……。

そして、永井電子やトラストと言ったメーカー参加のマシンや、
山野レーシングコルベットやアメリカンHITレーシング、高橋タイヤスティングレイ、
TOPSパンテーラと外車勢や、ライズのファミリア、関西スポーツコーナーのミラ、
色んな種類のマシンが集結し、一日中走りっぱなしのゼロヨンイベントだった。

 

 

 

 

 

 

 

優勝マシンであるビルドサニーを筆頭に、参加マシンのデータや仕様、
セッティング変更点、インタビューと、いろんな形の取材材料を使って、
総ページとして44ページという大量ページを消費しての記事展開だった。

……と、ふと考えると、取材したのは藤本ひとりなので、
このあたりのことを全部取材できるはずもないので、
後日電話で聞いた話も、いっぱいあるんでしょうね。

一番最後に、当時の参考タイムを掲載しているが、
ひとつのラインとして、みんなが念頭に置いていたのは、


坂本オートZが、FISCOで記録した11秒396というタイムだったろう。

このタイムを超えることが、ひとつのラインだった。
結果として、ビルドサニーは、コンマ3秒以上クリアした11秒069という
タイムで優勝するわけだが、そこから10秒台への新たな挑戦が
始まることとなる。14秒付近からスタートした『良い子ゼロヨン』が、
次はFISCOに舞台を移して、『CARBOYゼロヨン』へと、
変貌を遂げる、ターニングポイントになったのが、
この『ゼロヨン日本一決定戦!!』だということは、疑いがないだろう。

このイベントが開催されたのが1983年。
原稿を書いている時点が2017年。34年前の話ということになる。

その間に、ターボが進化し、タイムは10秒から9秒、そして8秒、7秒台へと、
ドンドンと短縮されていき、ストックボディからチキチキマシン、パイプフレームへ。

2000年に7秒前半というタイム領域に踏み入れたあと、
アメリカ進出が行われ、ESCORTの塩原選手が、NHRAで勝つなど
ドラッグの頂点が、その時代だったように思える。

そして、バブル崩壊という予想外の社会状況が出現し、
そのあとは、ショップのマシン対決ではなく、
お客さんのストックマシンベースが主流となり、もう一度、
進化をたどり直して、いまに至っている。

思えば遠くへ来たもんだ……という言葉があるが、
一度戻って、もう一度同じ道を歩き直して、
ようやく2000年時に立ち戻ってきたというのが、
客観的な見方だろう。

2000年当時、NHRAのプロストックとのタイム差は、
ほんのコンマ数秒のところまで来ていた。

だが、2017年時点では、遥か彼方にある存在になってしまった。
プエルトリコ勢が記録するタイムを見ていると、
とてつもない差を感じるのだが……これは、今回紹介した
『ゼロヨン日本一決定戦!!』が開催された当時、
NHRAのプロストックが叩き出す記録が、いま見えている雲の、
また向こうにある雲の上の出来事だったことを考えると、
……同じようなものなのかもしれない。
1983年時点から、2000年に至るまでには『16年間』

 

註:画像は、拡大していただければ、かろうじて文字が読めるようなサイズに
してあると思うんですが……。よろしくお願いします。

 

 


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