HKS DRAG SUPURAの記録……

1990-1992年(HKS)

当時のHKSさんは、本気で
フルパイプフレームDRAGマシンを
販売しようと思ってた??


 

以前、CARBOY Returns!2を作っているときに
発見した記事なのだが、HKSさんが、最初に取り組んだ
DRAGスープラが、製造&販売まで考えていた……と、
CARBOYの記事を連続して集約すると、そういうことになる。

アメリカ・ポモナにある『プロシャシー』という
ファクトリーに依頼して制作したパイプフレームを
ベースに、日本のドラッグレースに参戦、
各レースを『完全優勝』しながら、今後のジャパニーズドラッグシーンを
モディファイしていこう……そう考えていたんじゃないかな、と思う。

プロストックシャシーだけではなく、GT-R R32をベースにした
マシンも制作し、ストックボディとの両輪で、ドラッグレースを
牽引していこう。亡き長谷川さんの脳内予定図には、
そういうふうに描かれていたんじゃないでしょか。

当時、ドラッグは、ゼロヨンは、間違いなく日本のチューニングシーンを
支え、隆盛させていった超主流のジャンルだった。
1980年台に台頭し、あれよあれよという間に、日本全国津々浦々で、
ゼロヨンブームが巻き起こっていた。

そんななか、市販ボディのモディファイからスタートした
日本式のゼロヨン改ドラッグではなく、
アメリカ仕込の、本格的なドラッグレースを、
日本に根付かせよう……壮大な計画でありました。

実際問題、HKSが投入した70スープラとR32GT-Rは、
それまでのドラッグレースの様相を一変させた。

 

 

 

CB1990_05HKSドラッグUSA


CB1991_02CARBOY0→400mターボ

 

アメリカで制作されたシャシーに、
HKS製パワーユニット等を搭載し、
谷田部の自動車試験場でテストを行なっているという話を
聞いたのはいつ頃だったろうか?

「最初は、まったくと言っていいほどまっすぐ走らずに、
アメリカから来たスタッフが、リヤフレーム内に
ウエイトを積んだら、びっくりするほど直進性が良くなった」

だとか、

「タイムが○秒出たっ!」

とか、

そういうたぐいの風聞が、あちこちで囁かれていて、
その実態がわかったのは、アメリカの記事が掲載されてすぐのこと。
CARBOY0→400mに登場した70スープラは、
8秒605という、当時としては『驚異的なタイム』で、
他のマシンを圧倒するポテンシャルを見せつけた。

このとき以降、全国のドラッガーの合言葉は
「打倒! HKSっ!!」となった。
HKSに追いつけ&追い越せ。
区間タイムでもなんでもいいから、
どこかでHKSを凌ぐ……そういう『目標』を与えてくれた。

そいう意味では、長谷川さんの思惑通りに、
日本中のドラグフリークが、その後の何年間も、
チャレンジを繰り返していくことになる。
本当に、HKSという存在は、
ドラッグレースにとって、貴重なものだった。

 

 

CB1991_03TUNEPOINT4HKSドラッグスープラ

 

 

 

 

CB1991_07HKSドラッグスープラ

 

 

 

 

CB1992_03HKSドラッグ販売予定

 

 

 


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